年間第11主日 (マルコ4章26-34節)
聖書学者エレミアスは、聖書のたとえ話はイエスに対する非難などに対する弁明として語られていると言います。
イエスの集団は、漁師や税吏、罪びとたちの集まる集団でした。イエスのもとに集まった人々はほとんど病人とその家族のようです。そして、イエスはこの人々を指して、「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」(3の34)と宣言されました。
神の国のために戦う戦士になろうと考えていた「熱心党のシモン」(マルコ3の18)のような弟子たちは、この現実をどのように見たのでしょうか? 多くの人々から見ればイエスの周りで起こっていることはあまりにも小さく、弱々しい人の群れでしかなく、神の国からほど遠いものに見えたと思います。
そしてイエスは言います。
「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」
フランシスコ会訳は「どうしてそうなるかをしらない」
日本聖書協会訳も「どうしてそうなるのかその人は知らない」同じ文章を、
講談社のバルバロ訳は「気づかぬままに」と訳しています。
どうしてそうなるかその人は知らない と言う訳と
気づかぬままに と言う訳では かなり意味合いが違います。
そうなるか・・というのは、成長の理由を指しますが、気づかぬままに・・というのは、そのことに気を配らないうちに・・いつの間にか・・・という意味になります
ラテン語訳は 「dum nescit ille」 彼が知らないうちに・・いつの間にかです。
次の「からし種」のたとえ マルコでは野菜 マタイ・ルカは木と表現されていますが、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張ります。
実は、日本語訳には原文にはない言葉が付け加えられています。 葉と巣です。
フランシスコ会訳は「その陰に鳥が宿るほど」
日本聖書協会訳は「その陰に鳥が宿るほど」
バルバロ訳は「空の鳥が陰に身を寄せるほど」と訳しています。
「からし種」の特徴は、その成長力です。わずか1.5ミリほどの小さな種ですが、ガリラヤ湖畔においては、2.5~3mほどになるそうです。
神の国も同様、人間の反逆や不従順にもかかわらず、神の働きは続いてゆく。
そこには達成の日があることを告げています。収穫の日、よき実は取り入れられ、雑草と毒麦は捨てられる。天の御国は、「からし種」のように、小さくて人々に気づかれないものであるが、結果的には、非常に大きなものに拡大し、この地上に満ちわたるものとなることが明らかにされています。
イエスに対する周りの人たちの非難や中傷、そんな中でイエスは今日のたとえ話を語っています。焦らないで神に任せなさい。神の業は素晴らしい・・そうは聞こえませんか。