司祭の言葉 4/11

復活節第2主日

「その日、週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」・・とあります。想像してみて下さい。イエスを裏切って逃げてしまった弟子たち、イエスを否定したペトロ、どんなにか自己嫌悪に陥っていたことでしょう。そして「ユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」のです。イエスを捕まえ、あの凄惨なむち打ちを受けたイエスを十字架につけろと叫んでいたユダヤ人たちが、今度は自分たちを捕まえに来る・・ 恐怖のため外の足音に耳をそばだて、息を殺していた弟子たち。
 そこに現れたイエスは「あなた方に平和」と挨拶します。心の平和などなく、ただただおびえていた弟子たち。彼等に傷跡を見せ自分であることを示し、「あなた方に平和」と、おっしゃったのです。弟子たちは赦されていると実感し、心に喜びが戻ってきたことでしょう。イエスとともにいた時の平和と誇らしさが、再び満ち溢れました。
 仲間とともにいる事さえ疎ましく、一人自分の殻にこもっていたトマスはそこにいませんでした。
 弟子たちの裏切りについて一言も触れず、ただ「あなた方に平和」と言われた主は、その言葉で弟子たちのすべてを許していたのです。
 ですからイエスは弟子たちに、あなた方も赦しなさいとおっしゃったのです。許さなければ、相手はいつまでたっても平和を得ることが出来ません。イエスが無条件で赦したように、私たちも赦すべきなのです。
 そしてそこにいなかったトマスは見るまで信じないと言います。トマスはイエスの復活だけではなく、イエスの赦しの言葉が、「あなた方に平和」と言ったということが、信じられなかったのです。

 赦しのための派遣、ここは十分注意を要する言葉です。  誰も他人の罪を許す権限はありません。イエスだけが持っています。パリサイ人たちはイエスが『子よ、あなたの罪は赦された』といったときに激怒しましたが「人の子が地上で罪を赦す力を持っていることを知らせるために・・」といって、「起きなさい、床を取って帰りなさい」と仰いました。
マタイ9の2「中風の人のいやし」

 ここで一つ確かなことは、今日の出現が人間に対する神の赦しの事実とその宣言だということです。そして、十字架による神の赦しと、福音を伝えることは教会の大いなる特権というべきなのです。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(mt9:13)と言われたイエスは、最後の晩餐の折、葡萄酒の満ちた杯をとって「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われ、翌日十字架の上に血を流しました。(同26:28)

 そして、復活されたイエスは弟子たちの罪を赦し、罪を赦すことを、弟子たちの使命とすることによって、教会をお建てになったのです。
 だから、教会はイエスによって罪を赦されたことを自覚する者たちの集いなのです。そして「主の平和」と言う挨拶は、互いに罪を赦しあう言葉でもある・・わたしはそう信じます。