司祭の言葉 1/29

年間第4主日A年

 今日の福音は、マタイによる福音書 5:1-12a 真福八端 といわれるところです。
「端」という字には、始まるきっかけとか、糸口・・という意味がありますから、真の幸福に至る八つの糸口という意味でしょうか。

 この八つの言葉を私たちキリスト者は、この地上における生き方の指針として受け止めています。そしてそれはもちろん正しい生き方なのですが、これに対する批判もあります。
教会はこの生き方を強調して、社会の不正をただすことに力を尽くしていない、富める者に味方して彼らの生き方を許容してきた・・というのです。

 ところで、この言葉を聞いた時、貧しい人たちはどのように受け止めたのでしょうか。
 喜び安堵したことだろうと思います。
 でも、この言葉に驚愕し、慌て、怒り、イエスの教えを問題視した人たちがいます。
 誰でしょうか。祭司たち、律法学者たち、パリサイ人たち、時のユダヤの指導者的立場にあった人たちです。
 これらの言葉のどこが問題なのだと思われますか?

 律法学者たちはモーセの座にあって、律法主義を徹底することによって、人々を指導してきました。そこには彼らによって確立された価値観がありました。しかしイエスの教えはこの価値観を逆転させているのです。

 当時の人々は、人が貧しいのは、不幸なのは、病気なのは、障害を持っているのは、神様からの罰であると考えていました。本人の罪か親の罪か、先祖の罪からくる神様からの罰であると考えていたのです。富めることは、今の良い身分にあることは、神様からの祝福であると考えていたのです。だから、貧しい人が幸いであってはいけないのです。
 しかしイエスは、貧しい人は幸いであり、悲しむ人も幸いであると言います。律法学者たちと真逆のことを教えている・・・それはこれまでの秩序の破壊に他なりません。
 イエスの教えは既成の秩序に対する宣戦布告だとみなされたのです。

 群衆は、自分たちの貧しさは自分たちの罪のせいだと思っていましたが、イエスは、「そうではない、あなたたちのその貧しさを神は祝福される」とおっしゃったのです。
「律法を知らないこの群衆は呪われている」(ヨハネ7の49)・・そう宣言するユダヤ人指導者たちでした。その、群衆についてイエスは「あなたたちは幸いだ」と宣言したのです。それどころか、富んでいる人たち、満腹している人たちに、禍を宣言しました。
 富や名誉を神からの祝福の徴とした律法学者たちの律法理解を、新しい解釈によって相対化し、無力化させたのです。絶対と思われていた教えが、イエスの逆説的な教えによって相対化され、無力化された・・絶対と思われていたものが比較できるようになり、無力化されたのです。律法社会を形成していた人たちにとって衝撃的なことでした。
 当時の社会のものの考え方の真逆を行く教えだったからです。
 そしてここに「イエス、死すべし」という判断がされることになったのです。

「心の貧しい人々は、幸いである」・・・この言い方を私は好きになれませんね。このようにしか訳せないのでしょうか。心が貧しい・・というと、日本語としては決して良い意味ではありません。心の豊かでない人・・という意味になりますから。
 原文を見ますと、その言い方は、「幸いな人よ。霊において貧しい人は・・・。」という言い方になっています。日本語訳では叙述的な言い方ですが、原文は感嘆文的な言い方なのです。
 サレジオ会のバルバロ神父の訳した聖書でも、「心の貧しい人」と訳していますが、「物質的にも貧しく、精神的にも金銭の富を求めない人」・・と、註をつけています。

 ここで私たちが見なければいけないのは、イエスの行動ではないでしょうか。イエスは宣教に入ると、しいたげられた人々と共に生活しています。これは明らかに律法社会の教えから外れています。貧しい人々に施しをしたり、助けたりすることは正しい行いであるとされていました。でも、貧しい人や罪人の家に入ることは、汚れを身に負うこととされていましたから、共に食事をする等のことは、むしろ、さけるべき事とされていました。貧しい人はあわれみをかけてあげる対象ではあっても、付き合う相手ではなかったのです。
 しかしイエスは積極的に彼らと交わっています。彼らこそが、イエスのそばに近づき、イエスの言葉を受け入れていったのです。そして人間性を取り戻していったのです。
 イエスは当時の律法主義によって作られていた差別を、言葉と行動によって取りのぞかれたのです。もしこの「心の貧しい人々は、幸いである」という言葉を、「今ある苦しみをがまんしていれば、死んだ後にきっと報われるから今の状態に耐えなさい」などという意味でとらえてしまうなら、イエスの思いを誤解することになります。これこそ、宗教が阿片として批判された精神です。
 一方で富んでいる人がおり、他方で貧しい人がいる事に、イエスは我慢ができなかったのです。真福八端は、そうした制度を支えていた人たちに、批判を込めて言われた言葉なのだ・・・私はそう思います。