司祭の言葉 1/15

年間第2主日 (ヨハネ1章29-34節)

 皆さんお変わりございませんか?
 この冬は、新型コロナウイルスの第8波とインフルエンザの流行が、懸念されています。施設でのクラスターも増えているようですので、教会もクラスターが起こらないように気を引き締めてゆく必要がありますね。

 さて、今日のみ言葉ですが、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、べタニアで自分の使命について証しをした、翌日の出来事です。
 ヨハネが自分のほうに来るイエスを見て弟子たちに「世の罪を取り除く神の子羊だ」と語った個所になります。

 「世の罪を取り除く神の小羊」はミサの中でお馴染みの言葉ですが、ヨハネが語った「神の小羊」とはどのような意味なのでしょうか。

 最初に思い起こすのは、出エジプト記12章にあるエジプト脱出の晩の物語から、小羊は神の救いのシンボルとなったことです。この時以来、イスラエルの民は毎年、過越祭に小羊を屠ってこの救いの業を記念しました。 過ぎ越しの小羊と呼ばれています。
 ヨハネがイエスに出会ったときにも、過ぎ越し祭の犠牲の小羊として役立つために、あちこちの田舎から追い立てられてくる小羊の群れが、そばを通り過ぎて行ったに違いないと、聖書学者のバークレーはかたっています。

 エジプトで奴隷となっていたイスラエルの人々を、解放したのは、過越しの小羊の血でした。ヨハネがイエスを指し示して「世の罪を取り除く神の子羊だ」といったとき、罪の奴隷状態にある私たちを解放するのは、このお方だと思いながら言ったのだろうと思います。

 また、イザヤ53章7節には「屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」という言葉があります。
 これは苦しみをとおして多くの人の罪をあがなう有名な「主のしもべ」について語られている箇所です。ヨハネはこの言葉を思い起こしながらこういっているのでしょう。
 「イザヤはこの預言の言葉を語った時、その民を愛し、そのために犠牲となり、そのために死ぬであろう者を思い浮かべていた。そのお方が今ここにいる」・・・と。

 さらには、私も忘れがちなのですが、ヨハネの父ザカリアは、祭司だったことです。西暦70年に神殿が崩壊するまでずーっと、神殿では毎日朝晩、人々の罪の許しを願って、雄の当歳の小羊の生贄がささげられていました。ヨハネはそれを間近に見ていたはずですから、この罪の許しのためのいけにえを思い浮かべたかもしれません。

 しかしながら、この箇所では「神の小羊」という言葉の意味よりも、洗礼者ヨハネが 「見よ!」と弟子たちの注意をイエスに向けさせていることが大切なのです。この言葉によってヨハネの弟子たちはイエスの後についてゆくことになるのですから。
ヨハネの弟子にとってもその時、「神の小羊」という言葉は、何を指しているのかわからなかったのではないでしょうか。

 「”霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」(33節)。

この言葉の意味も考えてみましょう。
 洗礼の元のギリシア語は「バプティスマbaptisma(水に沈めること)」です。
ヨハネは回心のしるしとして、人々を水の中に沈めていました。
そのヨハネが、「イエスは聖霊の中に人を沈めるお方だ」、というのです。

 皆さんは漬物はお好きでしょう。 いろいろな漬物がありますが、わたしは山形の「おみ漬け」がだいすきです。母が山形の出だったので、毎年おみ漬けを一樽は作っていました。この漬物は日の当たらない北側の軒下に置かれていましたので、いつも薄氷が張っていました。氷の張った桶から出したばかりの、ぱりぱりとした歯ごたえの漬物の味と香りは、子どもの頃のなつかしい記憶です。

 「洗礼を授ける(バプティゾーbaptizo)」という言葉を、を「漬ける」と訳した人がいます。「聖霊によって洗礼を授ける」は「聖霊漬けにする」と言ってもよいかもしれません。

 わたしたちが「聖霊漬け」になるというのはどのような意味でしょうか。 

 「一人一人が愛によって歩む、聖霊の香りを放つ者になる」ことだと言ってもよいかもしれません。エペソ人への手紙でパウロは次のように語っています。

「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」(5の2)

 今日のミサの中で、洗礼を受けた当時のことを思い起こし、聖霊のよい香りを放つことのできる恵みを、ともに祈りたいと思います。